日雇い労働者たちが作り上げた文化は何処へ
自社で35億円の物件運用中!!ノウハウあります^ ^
リフォーム・新築請負相談承り中↓↓↓
https://reform-pikaichi.com/reform/
いつもブログをお読みいただいてありがとうございます。企画宣伝の森戸です。
今日は、ドヤ街が変わってお洒落になってきているという話を書かせていただきます。若い方々は、ドヤ街と言っても知らない方々も多いかもしれません。
ドヤ街の成り立ち
1945年敗戦直後、焼け野原だけの日本経済は、50年代初め朝鮮戦争に伴う特需でかろうじて息をふきかえし、50年代後半以降 もうれつな勢いで資本主義的な政策を展開していきました。高速道路や新幹線などの新設され、原子力・海外石油も普及し、高度経済成長期と呼ばれた昭和の時代がありました。
その反面、今まで主軸であった石炭を炭坑で掘り起こしていた労働者が炭鉱の閉山と共に、行き場がなくなってしまったのです。職を失ったたくさんの人々が、東京、大阪、名古屋などを初め各地方主要都市に流れ込みました。そのような失業者を土木建築をはじめとする基幹各産業は雇用していきました。しかし、経営に充分な自信を持てなかったことと、安い賃金で使い捨てに出来るということで、各種の臨時労働者という形で雇うのが最も多く見られる雇用形態だったのです。それが日雇いです。そうしたあらゆる形の臨時労働力を貯め込んでいる基地として、全国的に「寄せ場」が作られていったのです。寄せ場の周りには日雇い労働者が身を寄せる「宿」が多く作られました。宿とは呼べ無い狭い空間であったため、「ヤド」を逆さにし「ドヤ」と言われたのが語源です。
1960年台から日本の3大ドヤ街といえば、東京の山谷(さんや)、大阪の西成(にしなり)横浜の寿町(ことぶきちょう)です。今回はその中でも、山谷を中心にお話しします。
地図から消えた町「山谷」
山谷は、地図から消滅している地名ですが、かっては台東区清川、日本堤、橋場と、荒川区南千住にまたがって存在していました。花街である吉原に隣接し、江戸時代には木賃宿(客が自炊し、燃料代のみ支払えば宿泊できる宿)が多かった背景から、戦後復興期以降は日雇い労働者の集まる簡易宿泊所街となりました。今、私たちが目にしている東京の高層ビルの多くは、ここで暮らした人々の労働力に支えられ、建設されています。その一方で山谷では、貧困問題や労働問題が浮き彫りになりやすく、1960年代には数千人規模の暴動も起こっている地域でもあります。
現在はこの街に生きた元労働者も高齢化しており、簡易宿泊所で暮らす人々の約9割は生活保護受給者といわれています。漫画『あしたのジョー』の舞台としても知られる賑わいのあった通りも、元気がないような感じです。因みにこの地域の宿代は、一泊1500円〜2000円が普通です。ジュースの販売機も今の時代でも100円です。
週末となると、労働者の皆様はお休みなのか、いたるところで宴会が始まっています。
高齢者が目立ちます。
山谷の周囲に建つ高層ビル
山谷の内側で進行する高齢化とは対照的に、周囲にはスカイツリーに象徴されるような開発ラッシュが押し寄せています。
山谷地区にはドヤで暮らす人ばかりでなく、ふつうに生活する住民も当然たくさんいます。山谷を訪れる内外からの人々の刺激を受けて、山谷の良いところを残しつつ、山谷が独自の街として発展していく、可能性があります。以前には見られなかった、そびえ立つ高層ビル。いま、山谷は内と外との両面から変化が迫られています。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
↓↓↓ぜひポチっとお願いします
↑↑↑めざせ!ランキング上位!
✩お得なキャンペーンや不動産情報✩をご紹介させて頂きます。告知は、弊社ブログ・LINE@限定となっておりますので、ブログのチェック、LINE@登録、どうぞよろしくお願いします。
【ピカいちのLINE@】
@ent7373a LINE@登録方法はこちら
八重洲ブックセンター、丸善丸の内本店で、週間ランキング1位になりました!
弊社代表 柳田の書籍 第1弾
【ピカいちのリフォーム投資】改訂版
大好評、販売中!『投資の教科書』としてお読みいただけます。
リフォームは投資という新しい考え方!☆リフォームやる前に読めば確実に元は取れると思います☆
ご購入はこちらから